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2024.9.9 07:00ゴー宣道場

「光る君へ」と読む「源氏物語」第19回 第十九帖<薄雲 うすぐも> byまいこ

「光る君へ」と読む「源氏物語」第19回
第十九帖<薄雲 うすぐも> 

 

「光る君へ」第29回は、ききょう・清少納言(ファーストサマーウィカさん)が白い紙に書いた草子(書き散らしたままの原稿)を、まひろに披露していました。

「枕草子」には、世の中のことが腹立たしく、何処かへ行ってしまいたいと思う時に「ただの紙のいと白う清げなるに、よき筆、白き色紙、陸奥紙(みちのくがみ 平安時代に陸奥国で産出された上質の和紙)など」が手に入れば、心が慰められて、しばらくは生きていられそうだと清少納言が語った後に、定子から「めでたき紙を、二十包み」賜ったという記述があります。

「お美しく聡明できらきらと輝いておられた皇后様と、この世のものとも思えぬほど華やかであった後宮の御様子が語り継がれるよう、私が書き残しておこうと思いましたの」と語ったききょうは、おそらくは定子が与えた白い紙に「枕草子」を書き綴っていたのでしょう。

「活き活きと弾むようなお書きぶりですわ。ただ、私は皇后様の影の部分も知りたいと思います。人には光もあれば、影もあります。人とは、そういう生き物なのです。それが複雑であればあるほど、魅力があるのです」と評したまひろ。

「皇后様に影などはございません。あったとしても、書く気はございません。華やかな御姿だけを人々の心に残したいのです」と反駁し「皇后様のお命を奪った左大臣にも一矢報いてやろうという思いでございます」と宣言したききょう。その言葉通りに、定子を忘れられない一条天皇と左大臣・道長の娘の彰子が愛を交わすまで時間がかかりました。

道長へのルサンチマンという仄暗い影を内包しながら、愛する者に捧げていたエネルギーが「華やかな御姿」、光を書くことだけに向けられた「枕草子」を反面教師として、まひろは大量にもたらされた越前和紙に、豊かな光と影の織り成す「源氏物語」を描いてゆくことに。

今回は、かがやく光に影がさし始めるさまをみてみましょう。

第十九帖  <薄雲 うすぐも (喪服の薄墨色 光る君の歌から) 

冬になって大堰の邸はさらに心細く、明石の君は落ち着かない気持ちで暮らしています。光る君は明石の姫を二条の邸で養育すること、紫の上は可愛い明石の姫君をおろそかにはしないと伝えました。

明石の君は、姫の身の上は、紫の上の心次第なので、物心つかないうちに譲ってしまおうと思ったり、姫を手放しても光る君は立ち寄ってくれるのだろうかと悩んだりしています。

明石の尼君は「悩んでも仕方ないでしょう。姫のために良いようにと思わなければ。光る君は世に二つとないほど素晴らしい方なのに臣下になったのは、母方の祖父が故・大納言で女御ではなく更衣から産まれたからでしょう。親王や大臣の娘から産まれても正妻でなければ世間から見下されて、父親も正妻の子と同じように目をかけられないのですよ」などと諭しました。

雪が少し解けた頃、光る君は大堰の邸を訪ねます。尼削ぎ(尼のように肩か首のあたりで切り揃える子供の髪型)の姫の髪が、ゆらゆらと可憐で、顔つきや目もとが匂うように美しく、光る君は娘を余所に渡す母親の「心の闇」を推し量り、繰り返し明石の君をなだめます。

無邪気に車に乗ろうとする姫を、明石の君は自ら抱いて外に出ました。片言の可愛らしい声で「お乗りなさい」と袖を引かれ、泣いてしまう明石の君を光る君は慰めます。乳母など品のよい女房だけが姫の車に同乗し、光る君は道すがら、後に残った明石の君が気の毒で「なんと罪作りなことをしたのだろう」と思います。

二条の邸に着き、しばらくの間は泣いていた姫は、よく懐いたので、紫の上は「本当に可愛い人を授かった」と抱いたり可愛がったりしています。袴着は格別に素晴らしく、姫は袴の襷を結ばれた胸のあたりが更に可愛らしく見えるのでした。

新しい年になり、二条の邸には参賀の人々が集まってきます。光る君は、のんびりと暇のあるときは花散里の住む東の院に立ち寄りますが、夜に泊るために来ることはありません。花散里は穏やかで安心できる人なので、光る君は折々の暮らしの手当なども紫の上に劣らない扱いをしています。大堰の邸には、嵯峨野の御堂や桂の院に行く口実で訪ねていますが、やはり明石の君は並々ならぬ扱いで、光る君の寵愛は深いようです。

その頃、太政大臣が亡くなりました。その年は、世の中が落ち着かず、宮中では神仏のお告げが多くあり、月や太陽や星の光りや雲の様子が、いつもと違って見えて人々は驚いていますが、光る君は心の内に思い当たることがあるのでした。

藤壺の尼宮も年の始めからずっと病気で苦しみながら過ごしていましたが、三月に病が重くなり、見舞のため帝が行幸します。37歳の厄年にも関わらず、藤壺は特に潔斎などをしておらず、帝は驚いて様々な加持祈祷をさせました。藤壺は帝が夢の中でさえ出生の事情を知らないことが気がかりです。光る君が几帳の近くに寄り「私もこの世にいるのが長くないような気がします」と伝えるうちに、藤壺は亡くなりました。

藤壷は権勢を笠に着ることはなく、世の苦しみとなることは止めさせていたので、亡くなったのを悲しいと思わない人はありません。光る君は、二条の邸の桜を見ても、花の宴の頃を思い出し、御念誦堂(仏を安置し念誦するための堂)に籠って亡き暮しています。夕日がはなやかにさして、山際の梢がはっきりとして、薄く広がって鈍色(濃い灰色 喪服の色)になった雲を見て歌を詠みました。

入日さす 峰にたなびく薄雲は もの思ふ袖に色やまがへる 光る君
夕日のさす峰にたなびく薄雲は 悲しむ私の喪服の袖に色を似せているのか

法事が終り、心細くなった帝は、藤壺と親しく、朝廷にも重んじられている70歳位の僧都(ぞうず 僧階 の一つで僧正に次ぐ地位)を宮中に呼び寄せて仕えさせていました。静かな夜明けで誰もいないときに、僧都は藤壺の悩みのために祈祷をしていたと打ち明けます。

「知らないままでいたら、来世まで咎められていただろう。他にこのことを漏らし伝えるような人はいるだろうか」と帝が訊ねると「私と王命婦(おうみょうぶ 光る君を藤壺に手引きした女房)の他は、この事を知らないので、恐ろしいのです。天変が起きて、世の中が落ち着かないのは、このためでしょう。帝が幼い時は良かったのですが、何事もわきまえられる時に至りましたので、天は咎があると示すのです。全ては親の世から始まっており、帝が何の罪とも知らぬままでいらっしゃるのが恐ろしく、今更ながら申し上げました」と僧都は言って、退出しました。

帝は桐壺院にも申し訳なく、光る君が臣下として仕えているのも畏れ多く、参内した光る君を見ても涙がこぼれます。その日は式部卿宮(桐壺院の弟宮 朝顔の賀茂の斎院の父)が亡くなったため、帝は世の中が騒がしいことを嘆き、光る君は二条の邸に戻らずに傍に仕えています。

「私の命も尽きようとしているのでしょうか。譲位をして心安らかに暮らしたいのですが」と帝が相談すると「あるまじきことです。世の中が静まらないのは、賢帝の御代にも、唐土にもありました。まして世を去るのが道理の年になった方が、時が来て亡くなるのを嘆くことはありません」と光る君は諭します。帝は鏡を見て光る君と瓜二つと感じていたところに僧都の話を聞いて「どうやってこのことを、仄めかしたらいいだろう」と思っています。光る君は帝の様子がいつもと違うと感じますが、事情を聞いたとは思いも寄らないのでした。

帝は様々な書物を調べ、皇子から臣下になった源氏が納言、大臣になった後に、親王になり、帝位に就いた例があることから、秋の司召(つかさめし 官吏の任命)で、光る君に太政大臣の内定をした際に譲位を申し出ました。譲位も太政大臣の就任も固辞した光る君は、王命婦に「藤壺が帝に秘密を洩らしたのか」と尋ねます。王命婦は否定したので、光る君は藤壺の思慮深さを思い恋しがるのでした。

23歳の前斎宮の女御は、14歳の帝の良き後見となり、この上なく寵愛されています。秋の頃、二条の邸の寝殿に里下がりした女御を、32歳の光る君は親のように世話しています。御簾の中に入り、几帳だけを隔てて、直接、話をするなかで「春と秋と、どちらにお心寄せになりますか」と訊ねると「秋の夕暮れこそ、儚く亡くなった母のゆかりになると思われます」と頼りなげに言いよどむ女御は何とも可憐。光る君は恋心が抑え難くなり「忍びがたい折々もあるのですよ」と伝えますが、女御は応えようがなく、光る君が去った後も残り香さえ疎ましく感じます。

光る君は西の対に戻って「無理な恋に胸がふさがれる癖が、まだあったのだ。若い頃は思慮のない過ちとして神仏も許したのだろう。恋の道も、以前よりは分別がついてきたのだな」と思い知ります。紫の上には「女御が秋にお心寄せになるのも趣きがあり、あなたが春の曙を深く思うのも道理ですね。季節の花にこと寄せて、管弦の遊びなどをしてみたいですね」などと光る君は言うのでした。

***
子どものいない紫の上が、将来の后として明石の君の産んだ姫君の育てることになるのは、「光る君へ」で、彰子が、亡き定子の産んだ敦康(あつやす)親王を、将来の天皇として育てる様が髣髴とします。さらに義理の親子として親しくなってゆく敦康親王と彰子に、光る君と藤壺の姿をみることもできそうです。

娘を手放す明石の君の苦悩を表現する「心の闇」という言葉は、紫式部の曽祖父・藤原兼輔が、娘の桑子を醍醐天皇の更衣にする時に詠んだといわれる歌「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな(人の親の心は闇というわけではないけれど、子を思うと道に迷うように思い悩むものですね)」から。「光る君へ」でまひろは裳着の後と、賢子が文字を覚えようとしないときにこの歌を詠じており、「光と影」を描く「源氏物語」に通底するテーマになっているようです。

「薄雲」の帖で亡くなる藤壺は、「薄雲女院」とも呼ばれており、光る君と共に前斎宮を入内させ、「絵合」でイニシアティブをとるなど、冷泉帝の御代に力を持ち続けた様子は、朱雀帝の御代に権勢を振った弘徽殿の大后と入れ替わったようでした。

「光る君へ」で、息子・一条天皇が即位して国母となるまで女御に据え置かれた詮子(吉田羊さん)は、円融院の死後、出家して史上初の女院の称号を与えられます。「源氏物語」の朱雀帝が即位して国母となるまで女御のままだった弘徽殿と、出家した後に力を持った藤壺には、詮子が反映されているのでしょう。彰子も一条帝の死後は女院となり、ゴッドマザー的な存在になってゆくようですが、今のところ父・道長は「子を思ふ道」に惑い、まひろの助力を得ることになりました。

今季のドラマ「海のはじまり」はSnow Manの目黒蓮さんが、「西園寺さんは家事をしない」はSixTONESの松村北斗さんが、幼き娘を周囲の助力を得て育てるシングルファーザーを演じておられます。「子を思ふ道」に惑い、ワンオペ育児が手詰まりなのは1000年前も現代も不変であると感じます。

さて、「決して娘に色めいた思いをお寄せにならないで」と六条御息所にクギをさされていた光る君が、ついにフラれてしまいました。藤壷の法事が終わった直後に斎宮の女御に迫るのは、かつて葵上の法事の直後に幼い紫の上と関係を持ったのと似たパターン。残り香さえ疎む場面は、父親の加齢臭を嫌う娘のごとく非常にリアル。女御は母・御息所への扱いも思い合わせていたのでしょう。

秘められた罪を重く受け止めて悩む若い帝と、罪の共犯者がこの世を去った途端に軽々しい振る舞いをする光る君。紫式部は、老若や善悪という光と影をも、瓜二つの親子で少し意地悪く対比しているよう。心の闇を内包する人物たちの悲喜こもごもの魅力が、ドラマと同じく原作でも、さらに精緻に描かれてゆきます。

 

【バックナンバー】
第1回 第一帖<桐壺 きりつぼ>

第2回 第二帖<帚木 ははきぎ>
第3回 第三帖<空蝉 うつせみ>
第4回 第四帖<夕顔 ゆうがお>
第5回 第五帖<若紫 わかむらさき>
第6回 第六帖<末摘花 すえつむはな>
第7回 第七帖<紅葉賀 もみじのが>
第8回 第八帖<花宴 はなのえん>
第9回 第九帖<葵 あおい>
第10回 第十帖 < 賢木 さかき >
第11回 第十一帖<花散里 はなちるさと>
第12回 第十二帖<須磨 すま>
第13回 第十三帖<明石 あかし>
第14回 第十四帖<澪標 みおつくし>
第15回 第十五帖<蓬生・よもぎう>
第16回 第十六帖<関屋 せきや>
第17回 第十七帖<絵合 えあわせ>
第18回 第十八帖<松風 まつかぜ>

 


 

 

NHK・Eテレの『歴史探偵』という番組では、『源氏物語』を書くのに紙がどれだけ必要だったかを算出し、当時の貴重品だった紙をこれだけ確保できたのは、藤原道長から与えられていたからだろうということで、ドラマが最新の学説に基づいていることをアピールしていました。

誰でも、どんなくだらないことでも書いて発信できる現代とは全く次元の違うものなのだということを改めて思いつつ、この物語をかみしめていきたいと思いました。

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